昭和型企業における転勤と総合職についての考察

 

 

 前々回記事、『昭和型の古臭い会社で一か月間働いてみた』からおよそ2年が経過した。この2年の間に、平成から令和に元号が変わり、昭和から保ってきた多くの社会的な構造が変わりつつある。例えば、終身雇用がその例だ。私は終身雇用について決して反対ではないが、実際に大企業経営陣の象徴とも云える、経団連会長やトヨタ自動車社長から終身雇用維持の困難さについて具体的な言質が表れるようになった。

 

 

さて、これらいわゆる『終身雇用』とセットで、昭和型企業モデルを支えてきた仕組みがある。それが総合職である。本論ではこの総合職を支える仕組みである『転勤』について述べたいと思う。なお、本論においても前回記事と同様、その主張はあくまでも仮説である。よって、具体的なデータ等を用いた客観的な研究や実験については専門家に任されたい。

 

 

 私が所属している企業は典型的な『総合職』企業である。よって、転勤を伴う異動が発生する。そして、その転職を多く積み重ねてきたいわゆる「できる人材」は企業の上位職へ上り詰める仕組みになっている。実際、役員の人々とお話しする機会があった際に、私は転勤の回数やその是非について様々な聴取を行った。その聴取において、最も印象深かったシーンが以下である。

 

 

「(転勤を繰り返してきた)あなたにとって 故郷 と思える場所はどこですか?」

「 故郷 ?そんなものはないよ」

 

 

これほど虚しいことはあるだろうか。もし、私が故郷を知らなかったら、人生におけるほとんどの安全基地を失っていただろう。故郷は重要だ。故郷は人生のどの段階においても安全基地となりうる。この安全基地という概念は、近年企業のマネジメント等で重視されている概念である。以下がその定義である。

 

 

''安全基地(あんぜんきち、英: Secure Base)とは、アメリカ合衆国の心理学者であるメアリー・エインスワースが1982年に提唱した人間の愛着行動に関する概念である。子供は親との信頼関係によって育まれる『心の安全基地』の存在によって外の世界を探索でき、戻ってきたときには喜んで迎えられると確信することで帰還することができる。現代においては子供に限らず成人においてもこの概念は適用されると考えられている。'' 「安全基地」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より 

 

 

これらの概念に学術的根拠があることは定かでないが、少なくとも私の感覚においては、かなり重要な概念であると考えている。私には故郷がある。慣れ親しんだ公園や、よく遊んだ砂場、友人とキャッチボールをした校庭などそれである。慣れ親しむには時間が必要だ。特に子供にとっての時間は非常に影響力が強い。一般に、20歳をこえると「大人になった」といわれるが、私には大人になっている感覚がない。「大人」はたかだか子供に対するアンチテーゼとしての概念に過ぎないと考えている。『三つ子の魂百まで』とはよく言ったもので、私もそうだと思う。実際、脳を形作るシナプスは0~3歳児にその80%が完成し、0~6歳児にその90%が完成するといわれている(詳しく知りたい方は`jack shonkoff early childhood`と検索されると良いだろう)。ゆえに、「家族」や次世代を担う「子供」にとっての重要な時期に、その安定した場を提供できないことは、資本主義よりもさらに根源的な、人間の生命活動にとっての損失であると考えている。

 

 

 さて、昭和型企業の転勤を伴う『総合職』は、十分な安全基地を提供できるだろうか。答えはもちろん、''否''である。昭和型企業の総合職にとっての出世レースはまさしく、転勤の回数に裏付けられる。企業にとって最も都合の良い人間がその出世レースの勝者となるのである。昭和型企業では、転勤によって、単身赴任等により家族が引き裂かれたり、子供の最も重要な時期に父が家にいないなどという倫理的暴挙が平然となされていたりする。果たして、その転勤は家族にとって何を意味していただろうか。本論を読む、今まさに子育て世代の人間を転勤させたり、夫の育休を理由にその夫に対して転勤を指示し、家庭を崩壊させようとしている管理職や経営者の方々は胸に手を当ててよく考えてほしい。

 

 

【出世で支払われるお金で、親子の重要な時間を買うことはできない。】

 

 

私は、この概念の共有を可能とする仕組みができることを強く願う。残念ながら現在においては、いまだこのようないわば「資本主義をグリップする倫理」に関する考えについては共有されていないことが多い。ましてや上意下達の構造を通して、文学部や理学部における社会の根幹をなす基礎的な研究よりも、わかりやすい「お金」になる研究にたくさんのリソースが配分されている現状がある。

 

 

しかしながら、失われた30年の構造も同様なのだが、「どうせ今の仕組みなんて変わらない」と思うことはしたくない。なぜなら、「どうせ今の仕組みなんて変わらない」と思うことそのものが、仕組みが変わらない原因になっているからである。ただし一方でそれでもなお、仕組みが変わらないことも考えられるので、適応する方法を探すことも重要である。よって、以降の論では、

 

 

(1) 総合職の仕組みが''変わる''ならばどのように変えるべきか

(2) 総合職の仕組みが''変わらない''ならばどのように適応すれば良いか

 

 

それぞれ述べていきたいと思う。

 

 

(1)総合職の仕組みが''変わる''ならばどのように変えるべきか

  端的に言うと、総合職そのものを無くすべきである。現代のコンピュータ全盛時代、私たちが生み出す付加価値のほとんどは、コンピュータによる革新と人的作業の代替によって生み出されている。例えばGAFAに代表されるような、現在最も時価総額が高い企業群の大半は、コンピュータやインターネットによって成長を遂げてきた。それらはもはや、現代の社会活動において、なくてはならないものとなっている。よってそれらの性質を知ることは重要であろう。コンピュータの性質としては、単独で活動できないことが挙げられる。つまり、誰かが指示しなければその活動を行うことができないのである。この「指示」がいわばプログラムである。また、その指示をコンピュータに伝わる形で書くことをコーディングと呼ぶ。一般に、コーディングは人間によって行われる。コンピュータには、仕事をする上で得意なことがある。例えば、指示されたことに対してほぼ的確に行ったり、その指示を忘却することなく記憶したり、ほかのコンピュータに容易にコピーできたりすることが挙げられる。この構造の中で、すでに事業として成立するものを抱えるいわゆる大企業においてその生産性を向上するには、今まで人間が行ってきた仕事であり、かつコンピュータによって代替可能な仕事を、少数精鋭のコーディング部隊によって置き換えていき、余った人員をコンピュータが代替不可能な、「時間」や「高度な推論」に紐づいたイノベーションを伴う新規サービス及び製品等の開発に充てることである。以上の企業経営においては、もはや総合職や一般職といった区分よりも、新しい職種を創設することが望ましいだろう。特に、以下の3つの職に分けることを提案する。

 

a) 新しいものを作る職

b) 今あるものをテクノロジーによって効率化する職

c) 今ある収益構造を守る職 

 

 b)の目標は、c)人員の最小化およびa)人員の最大化である。そして、それぞれがプロフェッショナルとして機能することがその目標を達成する前提条件である。ここでは、総合職などという中途半端なジェネラリストはもはや通用しない。また、転勤可能性が高いと思われるc)人員はb)によって最小化されるため、もはや転勤そのものが時代遅れになるのである。そのような時代遅れの総合職(定住すらできない状況は旧石器時代と変わらない)なる概念は早急に消し去るべきであろう。とはいうものの、未だに意味のない儀式的なハンコ活動に勤むことによって、無駄な仕事を作り出すことに精を出す昭和型企業では、なかなかこのような概念を受け入れることができないかもしれない。よって、変わらなかった場合(2)ではその対策について考える。

 

 

(2) 総合職の仕組みが''変わらない''ならばどのように適応すれば良いか

 一つ目は、転職である。少子高齢化が進み、昭和型の企業も徐々に変わりつつある現代において、働き手が企業を選ぶようになりつつある。これは非常に望ましいことといえる。働き手の雇用条件を守りつつ、流動的に転職ができる環境は、経営者において経営努力がなされ、より良い仕組みが生まれる可能性をもたらすだろう。その中で、例えば地域限定職などの新たな職種が創設され、転勤などを伴わない形で給与を受けとることができるようになる例も増える可能性がある。しかしながらもし、そういった企業が今後増えなかったら、二つ目の解を検討せざるを得なくなるだろう。それは以下である。

 

妻:一般職勤務 夫:パートタイム勤務

 

昭和型企業において一般職は、女性の事務職が多い。よって男性と異なり、育休がとりやすく、社会復帰しやすい例が多いといえる。また、転勤を伴わない可能性が高く、定時で上がれる可能性も高い。よって、夜遅くまで親が帰ってこなかったり、子供が親と遊べない、などという現象が起こりづらい。もちろん、家族や子供の最も重要な時期に、単身赴任になったり、転職を繰り返すなどという非人道的な現象も起きづらい。また、夫がパートタイム勤務であるがゆえに、時間の融通を利かせることが可能となり、昭和の父像に代表されるような父と子における関わりの浅さに関しても、克服可能である。子供の最も重要な時期に、しっかりと故郷という安全基地を親子共々作ることができるのである。まさに人権が保たれた合理性のある解の一つといえるだろう。

 

 

 

 

 以上が私の主張である。このような稚拙な文章を最後まで読み進めていただいた方々に心より感謝する。最後に、マザー・テレサの言葉を引用し、締めくくりたいと思う。

 

 

''Love begins by taking care of the closest ones - the ones at home.''