企業構造・教育構造と現代的生産性創出における矛盾について

 前回記事『昭和型の古臭い会社で1か月間働いてみた』からおよそ1年が経過した。私は未だ、昭和型の企業に属している。よって1年間働いたために、郷に染まってしまっている恐れもある。しかしながら、1年間働いてみなければわからなかった部分も多々あったと考えており、今回1年ぶりに記事にしたためようと考えた。稚拙な文章ではあるが、興味のある方は読み進めてくださると幸いである。

 

 まずはじめに、本論における現代的生産性創出の定義を述べる。本論における現代的生産性創出とは、現代の技術を用いて、従来では多人数で行ってきたようなことを少人数で行うことができるようになる、またはそれらの技術を用いて社会に対して新しい価値観、サービスを提示することを意味する。現代における技術の進歩は著しく、近年におけるインターネット及びコンピュータを用いた技術革新は相当速度が速い。これは、産業革命以降の電気を用いた技術革新のスピードとは比較にならないだろう。なぜなら、パソコンさえあればアルゴリズムが書けてしまう、言うなれば産業障壁が低く、かつパソコンそのものが人間よりも優れた記憶媒体(覚えるという点に関して)であることから、経験主義的側面を有しづらく、時間の関数に左右されづらいからである。本論においては、それらの現代的生産性創出と現在の企業構造及び教育構造の矛盾について述べたい。まずはじめに企業構造について述べる。

 

 

1) 企業構造

 私が所属している企業は伝統的な昭和型である。年功序列型賃金体系であり、給与は年齢を重ねるごとに少しずつ上がる。おそらく20代は著しい成果を挙げたとしても、牛歩的に上がっていくことは目に見えている。一方、役員クラスになるとほぼ無駄な会議に出席しているだけのような人間でも給与は高止まりする。さて、ここで現代的生産性創出における課題に直面する。実は、20代や30代は高度情報化社会に晒されてきた、つまり消費者側としてインターネットやコンピュータを利用し、恩恵を受けてきた世代であるため、現在の昭和型企業の問題点(インターネットやコンピュータを使えばこの作業が楽にできるはず...etc)及び問題解決手段を比較的理解していると言っていいだろう。特に、合理主義的な価値観を持ち合わせている人間(楽に〇〇したい...etc)ほどその傾向を有していると私は考えている。だが、合理主義的な人間は案外問題提起しない。なぜなら、その問題提起によって、今の仕事に付加して仕事が増える可能性があるからである。現在の若年層は人口構造上、すでに多くの仕事を抱えており、誰かのために、みんなのために、何かをするほどの集団主義的価値観からくる心的余裕はあまり持ち合わせていない可能性が高い(また、インターネットやそれに伴うSNSの発達により自己選択を迫られる機会が多いこともあり、集団主義よりも、個人主義的傾向を有していると私は考えている)。これらに基づいて、仕事が増えても給与は変わらないという現実つまり、役員クラスの「おじさん」の成果として吸収されるだけであって、合理的ではないという現実をより一層認識されうる。よって、このような行動をする理由がないのである。ここに年功序列型賃金体系が「問題提起」の段階ですでに機能していない本質があると私は考えている。また、かろうじて「問題提起」ができたとしても高齢者が企業運営を握っている場合、インターネットやコンピュータの活用が「よくわらからないもの」として判断され、それらが提起として上がる前、もしくは上がった後においても、何事もなかったかのうように葬り去られることが多くあるだろう。この現象は電車に乗っているとわかりやすい。車内で座っている人間のうち、新しい情報やサービスに晒されている年齢層の人間はおそらくスマホをいじっているが、一方で、車内でどこか1点を見つめてぼーっとしている人間はまさしく高度情報化社会についていけていない、ご高齢の情報弱者世代であることが多く、また、そうした人々は車内でスマホをいじっている人々を異様に思う、「よくわからないもの」としての認識しか持ち合わせていないだろう(なお、昭和型企業の実権はなぜかこの情報弱者世代が握っている)。若年層においては、これらの現象を予測・認識するだけで、問題提起をする動機がそがれてしまう傾向にあるのではないだろうか。ではどうすれば良いか、答えは簡単である。生産性創出に対して創出額に連動して報酬(創出額の数%など)を与える、もしくは、問題提起した後にそれらの提起が有望であれば、現在提起者が抱えている仕事を減らし、問題解決に充てることを明示し、雇用契約レベルからその仕事範囲を定めることである。また、その例を社員全体に知らせる必要があるだろう。

 

2) 教育構造

 上記の企業構造においても、合理主義者が問題提起をする可能性がある。それは、自分のしたいことであるとき、つまり現代的生産性創出が「好き」なときである。しかし、「好き」というベクトルの基底は結構ぶれる。昨日はコメが食べたかったが、今日はパンが食べたいというように、「好き」はぶれるのである。現代において、ネットを活用している世代は、日々多くの情報に晒されている。この情報により、「好き」はさらにぶれやすい。しかしながら、この「好き」のぶれを享受するには、教育制度があまりにも硬直しすぎている。例えば大学の例がそれだ。大学受験の際に、一般的な進路の場合、高校におけるごく短期間で文系理系(かなり重要な選択のはずだが....)が決定され、その後は文系理系のレールにのり、なんとなく好きっぽいからという理由だけで謎の学部を受ける人間が多々いるにもかかわらず、大学に入った後の学部移動や進路移動のハードルが極端に高い。まだ学んでいないのに進路を選択しろと突きつけられることは、アイデンティティが形成される、もしくは「好き」を自己認識する以前に答えを求められ、その答えの通りに進路を歩まざるをえない、いわば「答えの奴隷のまま」の進路となることを意味している。大学以前の教育において、「答えの奴隷」を産出する構造はさらに明確である。これはまさしく、受け身均質教育によるものであると私は考えている。そこでは「答え」を答えさせることによって、教室内に教師(上のもの)と生徒(下のもの)という序列が生まれる。この序列構造は昭和型企業の年功序列構造とまるで変わらない。だからこそ教育課程としての学校という空間そのものが昭和から変わりにくい(地球温暖化により平均気温が上昇しているにもかかわらず、未だにエアコンがついていない学校もあるそうだが...悲劇としか言いようがない)。この変わらない構造において、「答え」を与えられ続けることによって「答えの奴隷」を日々生産し続けている。しかしながら、これらの「答えの奴隷」は同時にアイデンティティの奴隷を産出してしまう。つまり、小学校から大学まで様々なことを学ぶにもかからわず、何になりたいかわからない、何をしたいかわからない、という人間が大量に産出されるのである。さらに、ネット社会では、自分の「好き」を見つけた一部の人間が輝きを放ち、その輝きと比べてしまうことにより、自分の「好き」を見つけようともがいたり、他人の「好き」に依存する人間も多々いるだろう。

 

 このような構造は現代的生産性創出との間に大きな矛盾を抱える。経営層が本来求めているであろう、報酬に依拠しない「好き」を根拠にするボランティア精神溢れる問題提起を行う人材はそもそも昭和型の教育課程では生まれづらいのである。「答えの奴隷」は年功序列トップダウン構造で上に言われたことに忠実に従う軍の体制とほぼ変わらず、それらが昭和型企業への適応を促してきたはずであるのに、技術革新による問題提起を前提とした現代的な生産性創出とは全く相いれないのである。

 

 

 

3) まとめ 

 最後に、断りとして、私は経済原理や生産性のために教育構造があるべきではないと考えているが、教育構造そのものが、現代的生産性創出の流れと乖離した、(機能していない)経済や社会という単なる幻想を追いかけている状況があまりに惨めであるため、これらの矛盾を指摘したに過ぎない。いよいよ平成が終わる。平成から見ると2つ前の元号は大正である。新しい元号では、2つ前は昭和になる。つまり、昭和は、平成で云う、大正と同じ時代的ポジションになるのである。もう昭和という幻想的価値観を次の世代に構造的に押し付けるのはやめにしませんか。以上で論のくくりとする。