SNSにおけるコミュニケーションについての考察

 インターネットが発達した現代において、特に若者の間で重要なコミュニケーションツールとなっているものがある。そう、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)。例えば、TwitterFacebookLINE等がそれにあたる。これらはネットワークを介して意思伝達するツールであり、リアルタイムで友人や知人の言動を把握することを可能とする。このツールによって現代におけるコミュニケーションは大きく変化したと考えられる。私は今回の記事で、このSNSが本当に現代のコミュニケーションツールとして必要不可欠なものなのかどうか、考えることにしたい。

 では実際にどのような場面でSNSが利用されるのだろうか。私は、4つのタイプに分類できると考え、以下に示した。

体験の共有 共感の流布 実存の確認 実体の媒介

 これから、これら4つのタイプの具体例及び、SNSの利点・欠点等を述べていきたい。ここで述べるのは、SNSにおけるコミュニケーションについてであり、SNSはやった方が良いとか、やめた方が良いとか、そのような単純なことではない。それらは全ての人々の主観に委ねられている。また、本論においては実証がとれていないことが非常に多い。ここは、あくまでもミクロからの仮説であるということで勘弁してほしい。

 

体験の共有

 私たちは、ある体験、例えば友達や恋人と美味しいものを食べたり、遊園地に行ったりした際にこの体験を共有したいと思う傾向にあるようだ。Facebookにおけるあらゆる友人の写真を見てほしい。そこには、楽しかった思い出写真が非常に多い。これは、ミクロな現象であると指摘する人がいるかもしれないが、ほとんどの一般人のSNS利用は、おそらくこのような側面が強いだろうと考える。なぜなら少なくとも私の場合、「楽しかった」ということを当事者同士で共有することによって、その日が「楽しかった」と再定義できるからである。だがここで、SNSの重要な論点にさしかかる。これら体験の共有は本来、当事者のみで行われていたものではないだろうか。なぜ、SNSいう不特定多数の場に流布される必要があるのだろうか。この点こそ、まさにSNSの醍醐味であると考える人は少なからずいるだろう。だが、ここに大きなトレードオフが隠されている。

利点)当事者同士の体験共有ができ、体験共有事実を不特定多数に流布できる

欠点)体験共有していない人々に、体験共有事実が突きつけられる

体験共有した人々は、その事実を体験共有していない人々に突きつける事ができる(突きつけているつもりはなくても)。これはいわば、"デジタルマウンティング"現象なのではないだろうか。知る必要のない未体験共有情報を突きつけられる当事者は何を思うのだろうか。

 

共感の流布

 私たちは、自分の思っていることを人に伝えたいと思うことがあるらしい。例えば、ツイッターにおいて、日常生活でふと思ったことを表現する人がいる。電車でぶつかってきたおじさんが何も言わなかったとか、すごくこの犬がかわいい、とかである。これは日常会話と似ている。日常会話の場合はもちろん特定の人を対象に話すわけであって、そこで共感が確認されたり、否定されたりしながら関係が築き上げられる。しかしながら、SNSは不特定多数の場である。ここでは、共感したい人と共感したくない人が共存している。だが、この共感情報そのもののベクトルは不可逆的であるのだ。これがまさに2つ目のトレードオフだ。

利点)自分が思ったことを不特定多数にリアルタイムで流布し、favoriteボタンを介して共感の確認ができる

欠点)不必要な流布された共感情報を押し付けられることがある

不必要な共感情報の代表例は、一時的な感情ではないだろうか。「めっちゃしんどい。」「なんかつらい。」「楽しい。」人はなぜかこれらの言葉で共感してしまうことがあるらしい。しかし、こういった一時的な感情の不特定多数への流布は、本当に必要だろうか。従来の、日常会話や電話、メール等で十分なのではないだろうか。私は、そのような感情を否定しているのではない。私が述べているのは、不特定多数への情報流布が個々人に共感を押し付ける場合もあるのではないかという点である。

ただし、ここで非常にセンシティブな問題にぶつかる。それは、「一時的な感情を共有する人がまわりにいない」もしくは「特定の大切な友人に一時的な感情の共有を迫って迷惑をかけたくない」場合等である。この例では、環境の非選択性や、個々人の性格的側面との相関が強いのではないだろうか。また、実存確認等の心理的に深い側面まで考察が必要となるかもしれないで少し触れる)。一方で前述()の"デジタルマウンティン"との相関が存在する可能性もある。実証研究が待たれる。

 

 ③実存の確認

 私たちは、3次元(時間を合わせると4次元時空)空間に存在しているらしい。そこでは、様々なことが起こる。私たちが人間であることによって多くの体験をする。ただし、自分はいったい誰なのかについて自己で定義づけることはなかなか困難なようだ。なぜなら、自己の形成は周りの人間に依存しているからだ。例えば、職業がそれにあたる。職業には必ず肩書が付きまとう。〇〇のプロであるといえば、周囲の人間は、その人を〇〇のプロと定義づける。しかしながら、プロという肩書があるだけで、本当に熟達しているかどうかはわからない。SNSはこのような"肩書"を与えてくれる一つの場なのではないだろうか。例えばツイッターにおける、人気アイドルのフォロワーやツイートについて考えたい。人気アイドル(ここでは女性を想定する)には多くのフォロワーがいる。彼女がツイートしたとき、ただ自分の写真を撮っただけとか、特に面白いと思えない些細な内容でも、一定数のfavoriteが約束されている。一体このfavoriteは誰がしているのだろうか。実は、ファンである可能性が高い(当たり前か)。この構造は一般化できるのではないだろうか。つまり、不特定多数のfavoriteで自己の実存を確認しているのではないだろうか。そこには何が隠されているのだろうか。私はこれが、一種の社会的ポジション獲得ツールであったり自己存在の確認手段となっているのではないかと考えている。ここには、利点や欠点という短絡的な解釈を越える深い心理が隠されている可能性が高い。よって、トレードオフの概念はあえて提示しない。各自この記事を読んだ方々の主観にお任せする。

 

実体の媒介

 私たちが何かを人に伝えたいときに、何を用いるだろうか。遠い昔は言語、少し昔は手紙、今は電話やインターネットがその役割を果たしている。SNSもこれらと同様に、実体の媒介的手段なのではないだろうか。例としては、地域の自治会がそれにあたる。閉じたコミュニティであるが、知っている人が多い環境である。そこでは、日々の色々な出来事を共有される。これはSNSの構造と似ている。つまり、実体を媒介する手段としてのSNSである。ここである問題点が浮かび上がる。それは、SNSが実体的ではない、という点である。

利点)最小単位コミュニティとして閉じた社会を形成できる

欠点)情報がデジタルであるがゆえに少なすぎる

ここまでは、情報過多について論じてきたが、ここからは、実体と比較して情報があまりにも少なすぎるという点を提示したい。現代のテクノロジーの限界は、まさに情報の記述的限界ではないだろうか。人間一人の感情すら記述できない。つまり、情報の発信者と受信者の実体を表現しきれていない。にもかかわらず、依存性のあるどうも実体らしいコミュニティが形成されている点である。いわば、アナログの奇跡(軌跡)にデジタルが追い付いたかのような幻想が抱かれているのである。すでに一部の先端技術では追いついている部分もあるかもしれないが、少なくとも現在のサービスにおいては、追いついていない。なぜなら、実体の前提条件である3次元空間すら、SNSの場として表現できていないからだ。ましてやそれよりも複雑な人間の感情が表現できるだろうか。テクノロジーの発達が待たれる。

 

 

 

以上、SNSに見られる4つのタイプについて、トレードオフの概念等を述べた。私自身、SNSのヘビーユーザーであることから、このような記事が書けたのかもしれない。テクノロジーの発達とともに、今後もSNSが発展を続けることに間違いはないと思うが、SNSに自己を委ねすぎることに価値があるだろうか。また、社会的にSNSを強要されることは、必要性を有しているだろうか。私は、もっと個々人に選択的であって良いのではないかと感じている。以上で論の結びとしたい。