昭和型の古臭い会社で1か月間働いてみた

 私は現在、昭和型企業モデルを現代においても頑なに貫く、「古臭い会社」に所属して1か月となる。人は、郷に入って郷に従う間に郷に染まってしまう傾向にあるようだ。よって、入社1か月目という、客観性が辛うじて保たれた状況において、昭和型企業モデルについて考察していきたい。

 

 まずはじめに、私はこの記事を記す前に、SNSにおけるコミュニケーションについての考察という記事を書いている。この記事における考察は、客観性を保つことを主眼においているが、もしも私が企業に入って1か月目を経過した段階であったとしたら、このような客観性が保たれた文章を書くことはおそらくできなかっただろう。なぜなら、昭和型の企業が求めるものは労働に対する適応であって、そこに客観性が介在すると適応しづらくなるからである。私もおそらくあと数か月すると、そのようにいわば思考過程がマヒしてしまう状況になるかもしれないが、現状はぎりぎりな状況で保たれている。

 

さて本論では、昭和型の企業モデルを形成する次の3つの要素

年功序列 ②終身雇用 ③新卒一括採用(就活)

について考察していく。

 

 

 

年功序列

 私は昭和型の古臭い会社に所属しているため、当然年功序列制度の中にいる。所謂「おえらいさん」は全員60歳を超えた御高齢の方々であり、若い人は一人もいない。彼らの思考回路は一貫しており、「私はこうしてここまで来た」等の「武勇伝」を語る傾向にある。つまりこれは、経験主義に基づいて考えられた思考である。年功序列においては、基本的に先輩や上司の意見に逆らうことはできない。先輩や上司の意見に逆らったものは、その企業の中で居場所を失う構造となっている。よってまさに、これらの構造が「武勇伝」を放置し、神格化する要因となっている。しかしながら、この「武勇伝」、現代に適応できるのだろうか。おそらくNoだ。御高齢の方々が生きてきた時代と現代には外部環境に大きな隔たりがある。御高齢の方々が現役で力を振るっていた当時の日本における通貨「円」は、完全なる自由市場に晒されていなかった。当時の日本は、言い換えると、米国の保護経済下にあったのだ。これは、1985年のプラザ合意までがそれにあたる。保護経済下においては、通貨的優位性があるため、労働人口増時代を迎えていた日本における経験主義に基づいた年功序列思考は、一定の優位性を発揮しただろう。特にハードウェアに付加価値を提供できる状況にあった時代は、ハードウェアという経験主義的側面の強い産業において、一定の優位性を発揮したと言っていい。しかしながら、プラザ合意以降、日本は自由通貨となる。円は正当な評価に基づいて売買されるようになり、円高が急速に進んだ。これにより、日本の昭和型企業モデルがすでに、そして完璧に崩壊したと考えている。いわば、「武勇伝」では解決できない外部環境となってしまったのである。しかも、現代はテクノロジーの発展が非常に速い。その助けになっているものがまさしく、シリコンであり、インターネットである。しかしながら、昭和型企業モデルにおける御高齢のおえらいさんはそれらを使いこなしてきた現役世代ではなく、自己保身のために過小評価する傾向にある。年功序列というシステムで神格化され守られてきた御高齢の方々はこれに気付かず(気づいていても無視している)、未だに「武勇伝」を語り続けている。はっきり言ってこれはただ「老い」という名の既得権を振りかざしているのみであり、そこに実体が介在していない。この現象に気づかなければ、テクノロジーに敏感な業界だけでなく、多くの昭和型モデルを貫いている企業において、より深刻な瓦解が起こるだろう。私は、現代に適している組織体系として、年功ではなく、マネジメント力序列主義を提言したい。というのも、現代の労働現役世代は、インターネットが発達した世代において膨大な情報を日々主体的に処理しており、自らの選択制を迫られる時間が長い。よって、従来の集団主義的かつ受け身均質主義的価値観よりも、個人主義的かつ能動主義多様的価値観を有している傾向にあると考えるからである。このような状況において組織のパフォーマンスを最大化するには、客体⇒主体ではなく、主体⇒客体が重要である。よってボトムアップ型のモデルが必要となる。これらのシステムでは、「武勇伝」を語るのではなく、「武勇伝」を語らせることが重要であり、それがまさにマネジメントの本質であると考えている。昭和型とは全く発想が逆であり、昭和型企業モデルが現代で機能しないのは当然である。

 

 私は経験主義を否定しているのではない。私が強調しているのは、外部環境に属わない適用不可能なモデルにおける人間の経験主義的思考が企業の実権を握ることは意味をなさない、という点である。御高齢の方々でも、非常に素晴らしい経験を持たれている人々もいる。また、そういう人々の意見は「情報」として積極的に聞くべきであると考える。

 

 

 

②終身雇用

 終身雇用制度は国家総動員法に基づいている。国家総動員法以前は、転職を繰り返すようなことは日常茶飯事であり、それらが日本の資本主義モデルを形成していた。つまり、終身雇用制度は政府によってつくられた戦時期の一時的な官製制度である。よって、現代のモデルに適用できるわけがない。東芝、シャープ、三洋電機、、、ハードウェアという最も経験主義にセンシティブな業界において、瓦解がすでに起きている。所謂超大手企業であっても、組織体系のモデルが外部環境に適していない状況であり、世界的に優位性を保つことはもはやできないため、いつ潰れてもおかしくない。つまり、終身雇用には期待できない外部環境になっているのだ。保護経済はすでに終わっている。一部の政府保護がある業界や、BtoBでかつ一定のシェアを有している企業はまだ気づいていないかもしれない。私の所属している会社もBtoBでかつ、非常にインフラ的側面が強いため、全くもって気づいていない。少し話が逸れてしまったので本筋に戻るが、私は終身雇用制度に決して反対ではない。終身雇用制度は、メリットとデメリットが混在しており、非常に優れた側面も有していると考える。よってそれらを下記に示した。

 

メリット)心理的な安定 過度な競争主義の抑止 長期的人材育成のしやすさ

デメリット)労働市場流動性の低下

 

もしも企業が今後も収益を確保できる見込みがあるのであれば、終身雇用制度も悪くはないだろう。非常にメリット豊富な制度である。また、労働市場流動性の低下は終身雇用と相いれないわけではなく、ドイツの官僚制度(※一時的に出馬して政治家になったとしても失職後官僚に再び復帰可能)等を参考にした制度設計は可能である。

 

 

 

③新卒一括採用(就活)

 明治から続いている制度である。当時は帝国大学等の一部の学生が対象となっていたそうである。ここで、新卒一括採用、すなわち「就活」について最もセンシティブにつづらている下記の動画を参考にしていただきたい。

www.youtube.com

 

この動画を作った方は、まぎれもなく問題提起能力に長けていると考える。しかしながら、年功序列型や均質主義的なモデルを未だ貫く昭和型ビジネスモデルには全くといっていいほど適合しないことを示している。なぜなら、就活そのものが社会の縮図だからである。本音と建前が介在した社会、そこに本質があるとは到底思えないやりとり、これがまさに現代の昭和型ビジネスであり、まさしく就活である。

 

 彼女は気づいていなかったのかもしれない。おそらくこの制作動画を携えて面接に臨めばすぐに数社から内定をもらえるということを。だがここで大きな、そして完全なるパラドックスが存在する。つまり、情報に対して敏感な、問題提起能力のある人間ほど、就活では自我を露出することを恐れ、不利に働くのである。これは就活セミナー等でよく語られるコミュニケーション能力や論理的説明(そもそも論理的説明をしろという教えそのものが論理的ではない。また、セミナーではコミュニケーション能力を論理的に説明すべきだがそんなものは変数が介在しすぎていて無いに等しい。)等といった形骸化した概念で片付けられる話ではない。これは個人の資質、つまりバックグラウンドの問題である。それらを測るシステムを残念ながら現在の「就活」は有していない。

 

 では本筋に戻るが、新卒一括採用をやめるべきか。そこもまたNoであると考えている。実は昭和初期までは、経団連が定めるような採用の期日がなかった。このことにより、学生が、学習を後回しにして就職活動を行っていたそうである。おそらく現代日本においても、一括採用をやめるとこのような現象は起きると考えている。最も情報に敏感な時期である大学1回生から、現代の「就活」のような思考を麻痺させかねない行動を起こすことは明らかに危険な行為であると私は考えている。よって現在の、ある一定の時期が来たら一斉に就活を行う制度は守るべきである。では何を変えないといけないのか。それは、前述のパラドックスを解消することが必要である。ここからは各企業の努力次第である。多様性の保たれた企業には多様な価値観が流入する。均質的な企業には均質的な価値観が流入する。

 

最後に、現在合同説明会等にいくとほぼ全員黒のスーツを着ているが、スーツの本場イギリスでは黒のスーツは葬式で着る礼服となっている。

 

 

 

総論)

 本当はあと何千字も書きたいことがあるが、総論として、なぜこのような昭和型企業モデルが出来上がったのか、その背景について考えたい。そこでまず、日本語と英語の違いについて考えることとする。かのウィトゲンシュタイン氏は、『哲学探究』においてこう述べている。

 

『言語の習得とは説明ではなく訓練である』

 

つまり、言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、日常的なコンテクストにおいてのみ機能するということを表している。ここから、日本語と英語の本質的な違いを論じたい。そのために、同じ意味(同じ意味かどうかはおおよそしかわからないが...)を有するであろうことがらについて2つの言語で併記したい。

 

日本語)そばにいるよ

英語)I'll be with you

 

ここでおそらく日本人において、「そばにいるよ」と言われるといつ誰が誰のそばにいるかを疑問視する人はあまりいないだろう。これは経験的に、「そばにいるよ」という言葉から、ある一定の敬愛している人間がいて、その敬愛した人間がその対象となる敬愛されている人間に言ったということであろう、かつ現時点でそばにいるかどうかはまあ曖昧にしておきましょうということである。このように非常に曖昧な経験則が言語体系に用いられており、大凡論理的とはいいがたい。よって、昭和型企業モデルにおいても、経験主義的思考、つまり「武勇伝」が曖昧に形成され、曖昧なまま創り上げられてきたのでないかと推察できる。これは、ある意味で非常に優れた共感能力を持ち合わせているといっていい。相手の言っていること、思うことを瞬時に推測できる。まさにおもてなし、接客業においては世界的な言語を寄せ付けない強さを発揮できるだろう。一方で英語ではほぼ全ての情報が揃っている。

 

誰が:I 私 

いつ:will  意志的なもの、未来を表す場合もある

誰のそば:you  あなた

 

このように、非常に論理的である。英語は日本語と比較して、とても論理的でかつ曖昧さを有しにくい言語である。よって、発想が異なる。英語は契約社会を形成しており、論理を重んじるが、日本の言語体系においては曖昧さや不透明さ、論理性の欠落が見え隠れする。昭和型企業モデルにおいて、営業が強い理由もそこにある。まず営業活動においてはその言語的性質により、変数が多すぎてそれらを測ることが非常に難しいため、必然的に経験則を有さざるをえないので、「武勇伝」が生じやすい点。また、営業における「売上」が、曖昧な変数がひしめき合う企業で交わされる言語体系において唯一といっていいほどに具体的な変数である点が挙げられる。

 

 時代は変化している。シリコンが発達した現代においては、企業モデルにおいて共感型よりも論理型の方が優位性を有しやすい。しかしながら現在、昭和型の多くの企業が、それらの大きな流れをとらえきれていない。その元凶が、時代に即していない形で未だ残っている本論で述べてきた各システムである。一方で、私はこの文章を日本語で書いている。この文章は決して論理的とは言い難いが、日本語が論理性を内包する言語であることは明らかである。なぜなら、以下の動画を見ていただきたい。

 

www.youtube.com

 

 

 最後に、現在の時代に即さない昭和型企業モデルの解体及び、再構築にとって重要な点として、日本語の論理的側面の再評価をする必要がある点、及び、日本語の共感的側面の強みを生かす必要がある点を挙げたい。以上で、論の結びとしたい。

 

SNSにおけるコミュニケーションについての考察

 インターネットが発達した現代において、特に若者の間で重要なコミュニケーションツールとなっているものがある。そう、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)。例えば、TwitterFacebookLINE等がそれにあたる。これらはネットワークを介して意思伝達するツールであり、リアルタイムで友人や知人の言動を把握することを可能とする。このツールによって現代におけるコミュニケーションは大きく変化したと考えられる。私は今回の記事で、このSNSが本当に現代のコミュニケーションツールとして必要不可欠なものなのかどうか、考えることにしたい。

 では実際にどのような場面でSNSが利用されるのだろうか。私は、4つのタイプに分類できると考え、以下に示した。

体験の共有 共感の流布 実存の確認 実体の媒介

 これから、これら4つのタイプの具体例及び、SNSの利点・欠点等を述べていきたい。ここで述べるのは、SNSにおけるコミュニケーションについてであり、SNSはやった方が良いとか、やめた方が良いとか、そのような単純なことではない。それらは全ての人々の主観に委ねられている。また、本論においては実証がとれていないことが非常に多い。ここは、あくまでもミクロからの仮説であるということで勘弁してほしい。

 

体験の共有

 私たちは、ある体験、例えば友達や恋人と美味しいものを食べたり、遊園地に行ったりした際にこの体験を共有したいと思う傾向にあるようだ。Facebookにおけるあらゆる友人の写真を見てほしい。そこには、楽しかった思い出写真が非常に多い。これは、ミクロな現象であると指摘する人がいるかもしれないが、ほとんどの一般人のSNS利用は、おそらくこのような側面が強いだろうと考える。なぜなら少なくとも私の場合、「楽しかった」ということを当事者同士で共有することによって、その日が「楽しかった」と再定義できるからである。だがここで、SNSの重要な論点にさしかかる。これら体験の共有は本来、当事者のみで行われていたものではないだろうか。なぜ、SNSいう不特定多数の場に流布される必要があるのだろうか。この点こそ、まさにSNSの醍醐味であると考える人は少なからずいるだろう。だが、ここに大きなトレードオフが隠されている。

利点)当事者同士の体験共有ができ、体験共有事実を不特定多数に流布できる

欠点)体験共有していない人々に、体験共有事実が突きつけられる

体験共有した人々は、その事実を体験共有していない人々に突きつける事ができる(突きつけているつもりはなくても)。これはいわば、"デジタルマウンティング"現象なのではないだろうか。知る必要のない未体験共有情報を突きつけられる当事者は何を思うのだろうか。

 

共感の流布

 私たちは、自分の思っていることを人に伝えたいと思うことがあるらしい。例えば、ツイッターにおいて、日常生活でふと思ったことを表現する人がいる。電車でぶつかってきたおじさんが何も言わなかったとか、すごくこの犬がかわいい、とかである。これは日常会話と似ている。日常会話の場合はもちろん特定の人を対象に話すわけであって、そこで共感が確認されたり、否定されたりしながら関係が築き上げられる。しかしながら、SNSは不特定多数の場である。ここでは、共感したい人と共感したくない人が共存している。だが、この共感情報そのもののベクトルは不可逆的であるのだ。これがまさに2つ目のトレードオフだ。

利点)自分が思ったことを不特定多数にリアルタイムで流布し、favoriteボタンを介して共感の確認ができる

欠点)不必要な流布された共感情報を押し付けられることがある

不必要な共感情報の代表例は、一時的な感情ではないだろうか。「めっちゃしんどい。」「なんかつらい。」「楽しい。」人はなぜかこれらの言葉で共感してしまうことがあるらしい。しかし、こういった一時的な感情の不特定多数への流布は、本当に必要だろうか。従来の、日常会話や電話、メール等で十分なのではないだろうか。私は、そのような感情を否定しているのではない。私が述べているのは、不特定多数への情報流布が個々人に共感を押し付ける場合もあるのではないかという点である。

ただし、ここで非常にセンシティブな問題にぶつかる。それは、「一時的な感情を共有する人がまわりにいない」もしくは「特定の大切な友人に一時的な感情の共有を迫って迷惑をかけたくない」場合等である。この例では、環境の非選択性や、個々人の性格的側面との相関が強いのではないだろうか。また、実存確認等の心理的に深い側面まで考察が必要となるかもしれないで少し触れる)。一方で前述()の"デジタルマウンティン"との相関が存在する可能性もある。実証研究が待たれる。

 

 ③実存の確認

 私たちは、3次元(時間を合わせると4次元時空)空間に存在しているらしい。そこでは、様々なことが起こる。私たちが人間であることによって多くの体験をする。ただし、自分はいったい誰なのかについて自己で定義づけることはなかなか困難なようだ。なぜなら、自己の形成は周りの人間に依存しているからだ。例えば、職業がそれにあたる。職業には必ず肩書が付きまとう。〇〇のプロであるといえば、周囲の人間は、その人を〇〇のプロと定義づける。しかしながら、プロという肩書があるだけで、本当に熟達しているかどうかはわからない。SNSはこのような"肩書"を与えてくれる一つの場なのではないだろうか。例えばツイッターにおける、人気アイドルのフォロワーやツイートについて考えたい。人気アイドル(ここでは女性を想定する)には多くのフォロワーがいる。彼女がツイートしたとき、ただ自分の写真を撮っただけとか、特に面白いと思えない些細な内容でも、一定数のfavoriteが約束されている。一体このfavoriteは誰がしているのだろうか。実は、ファンである可能性が高い(当たり前か)。この構造は一般化できるのではないだろうか。つまり、不特定多数のfavoriteで自己の実存を確認しているのではないだろうか。そこには何が隠されているのだろうか。私はこれが、一種の社会的ポジション獲得ツールであったり自己存在の確認手段となっているのではないかと考えている。ここには、利点や欠点という短絡的な解釈を越える深い心理が隠されている可能性が高い。よって、トレードオフの概念はあえて提示しない。各自この記事を読んだ方々の主観にお任せする。

 

実体の媒介

 私たちが何かを人に伝えたいときに、何を用いるだろうか。遠い昔は言語、少し昔は手紙、今は電話やインターネットがその役割を果たしている。SNSもこれらと同様に、実体の媒介的手段なのではないだろうか。例としては、地域の自治会がそれにあたる。閉じたコミュニティであるが、知っている人が多い環境である。そこでは、日々の色々な出来事を共有される。これはSNSの構造と似ている。つまり、実体を媒介する手段としてのSNSである。ここである問題点が浮かび上がる。それは、SNSが実体的ではない、という点である。

利点)最小単位コミュニティとして閉じた社会を形成できる

欠点)情報がデジタルであるがゆえに少なすぎる

ここまでは、情報過多について論じてきたが、ここからは、実体と比較して情報があまりにも少なすぎるという点を提示したい。現代のテクノロジーの限界は、まさに情報の記述的限界ではないだろうか。人間一人の感情すら記述できない。つまり、情報の発信者と受信者の実体を表現しきれていない。にもかかわらず、依存性のあるどうも実体らしいコミュニティが形成されている点である。いわば、アナログの奇跡(軌跡)にデジタルが追い付いたかのような幻想が抱かれているのである。すでに一部の先端技術では追いついている部分もあるかもしれないが、少なくとも現在のサービスにおいては、追いついていない。なぜなら、実体の前提条件である3次元空間すら、SNSの場として表現できていないからだ。ましてやそれよりも複雑な人間の感情が表現できるだろうか。テクノロジーの発達が待たれる。

 

 

 

以上、SNSに見られる4つのタイプについて、トレードオフの概念等を述べた。私自身、SNSのヘビーユーザーであることから、このような記事が書けたのかもしれない。テクノロジーの発達とともに、今後もSNSが発展を続けることに間違いはないと思うが、SNSに自己を委ねすぎることに価値があるだろうか。また、社会的にSNSを強要されることは、必要性を有しているだろうか。私は、もっと個々人に選択的であって良いのではないかと感じている。以上で論の結びとしたい。